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「罪と罰」

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 江戸時代、賄賂政治で悪の代表のようにいわれる田沼意次は、その反面政治家としては実に有能な人物であった。

 当時、幕府予算はあって無きが如く、増税といえば年貢を引き上げ農民から搾り取ることに終始した。この政策に限度を感じていた意次は安政6年(1777)老中になるや、税制改革と予算制度の確立に乗り出した。

 先ず、その頃、漸く盛んになった商品流通に課税することを考え、予算計画の一環として経費節減に着手した。将軍の私生活に於ける費用をこれまでの六十バーセントに押さえ、町奉行所や京都の伏見奉行などの予算は全く増やさず、歳入を増す策として蝦夷(北海道)開発のため、調査隊を派遣するなど画期的な政策を実現しつつあったが、政敵のため天明6年(1,786)失脚に追い込まれた。

 五万七千石の所領のうち四万七千石と屋敷を没収の上、蟄居謹慎を命じられ失意のうちに七十才の生涯を終えたが、翻って考えると現在の政治家と比べ政策と言い豪った罪科と言い、どうであろう。

 政治改革も掛け声ばかり、すったもんだの末にようやく選挙制度の改正はしたものの、不要な出先機関ひとつ削滅できない政治家、明らかな収賄にもかかわらず僅かな罰金で済む大物政治家、起訴されてもウヤムヤのうちに無罪になる政治家、またたとえ拘留されても庶民には気の遠くなるような大金を積んで保釈になる者、等々・・・。

 現在と江戸期を比較すると時代が違うと言ってしまえばそれまでだが、さらに酷い話がある。貞享4年(1755)のことだ。

 時はあの犬公方、五代将軍綱吉の治世の頃である。山本兵助という一人の旗本、同輩の只超甚太夫親子が吹き矢で燕を殺した現場に通りかかり、それを止めなかった罪で八丈島へ流罪になった。生類憐れみ令執行の時代ではあっても、燕一羽で二人が死罪、一人が遠島とは恐ろしい法律があったものである。

 幸い兵助は、元禄十年(1765)赦免になったが、それにしても在島十年は殺燕現場に通りかかっただけの代償としてはあまりに高すぎたといえる。

 他にも天明二年(1782)そのという二十二才の女は夫が放火の疑いで捕まり、吟味中に牢死したため身代わりとして八丈島に流され、在島三十三年、五十五才で島の土と化した。

 もっと哀れなのは里のである。夫の金蔵が牢抜けの末、行方が知れないとあって、妻の里のが代わりに八丈へ島送りとなり、在島、実に五十四年、七十八才で悲惨な生涯を終えた。この事実を現在の人はどう考えるだろう。

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   Kiru


 


       このコラム『頂門の一針』素晴らしい!

               飲酒運転は【即・殺人罪】で処すべきだ。




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