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門脇シヅエさんに、思いを馳せる

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      ●明治31年9月17日生
      ●平成1O年1月18日没
   (享年99歳)






 夜はもんぺ姿で寝た。往診の依頼が来た時、すぐに駆け付けるためだ。タレント、ケーシー高峰さんの母親で山形県の女医の草分けだった門脇シヅエさん。1923年、無医村だった最上町に医院を開業した

▼1日20~30キロを歩いて往診。冬はそりを走らせた。内科、小児科、婦人科…、お産も扱った。5人の子に恵まれ、次男の出産時には自分の産室で急患を治療。栄養状態が悪い他人の子に自分の母乳を与えた。多くの命を守った「最上町の母」は20年前、99歳で亡くなった

▼門脇さんが生きていたらどんなに嘆いたことか。東京医科大の不正入試問題だ。女性は出産や育児で長時間勤務できないなどとして女子や浪人生の合格者を抑える得点操作を長年繰り返してきた。女性や苦労を重ねた男性の人権を無視した許し難い行為だ

▼主導した前理事長らは「同窓生の子弟を入学させ、寄付金を集めようとした」と動機を話し、謝礼ももらった。息子を不正合格させた文科省前局長の事件では同省の補助金が絡んでいた。努力した者が報われず、ずるい者が勝つ。そんな世の中の縮図を見る思いがする
門脇さんは患者から余分な金は受け取らず、清貧な生活をした。人生訓は「至誠」。前理事長らの脳裏にこの言葉がよぎることはなかったのだろう。【河北春秋】

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  読者の皆さま・・・下記の記事、ちょいと、長いですが
  ご覧頂ければ、きっと心が和むでしょう!


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                 平成10年2月発刊 1998年2  No・561より
                  (故)門脇シヅエさんの生涯 。 至誠の人





第1話 女医誕生 

  シヅエさんは明治三十一年九月十七日、父良安と母イトの間に、四人兄弟の次女としてこの世に生を受けた。門脇家は、江戸時代の後期から現新庄市内で代々開業医を営む(現在の当主は七代目)“お医者さん一家”である。

 こうした家系からか、医師になるのが自らに課せられた使命であると信じ、向学心に燃え、やがて東京女子医学専門学校(以下“女子医専”)の門をたたく。青春真っただ中のシヅエさんにとって、女子医専は、学門はさることながら、あらゆる知識や経験をどん欲に吸収できる絶好の場であった、なかでも、女子医専の精神に謳われていた『至誠』の二文字は、シヅエさんの人生にかけがえのない精神的糧を与えるものであった。

 至誠とは、きわめて誠実なこと、まごころなどを意味する。後段でもふれるが、シヅエさんはこの言葉を自らの人生訓にしたのである。女子医専卒業後、二年間ほど実家の医院に勤めていたが、医師として大成することを夢見て、再び向学心に燃え上京を決意する。

 大正十二年九月一日、新庄駅に向かうシヅエさんに、その後の人生を大きく左右する運命的な大事件が待ち受けていた。関東大東災の発生である。この大地震で関東方面への交通機関は完全にストップ。復旧のメドもたたず、上京への道は完全に閉ぎされてしまった。

 意気消沈の日々を送るシヅエさんに、当時無医村だった東小国村に「医院を開業しては」という話が持ち上がった。いわゆる“のれん分け”というものである。これを人生の転機ととらえたシヅエさんは、かつて商社マンだつたご主人の貞さんと共に、未知の地での生活を決意したのであった。

 かくして、無医村地域での「女医誕生」となったわけであるが、その舞台裏には、こうした大事件が大きく影響していたのである。何ともドラマチックな話である。

第2話 粉骨砕身 

  シヅエさんら夫婦が新天地を求めて、初めて向町駅に降り立った時は、所持金五円と聴診器が一つ、そしてわずかの家財道具が全財産だったという。決して裕福なスタートとは言えないが、ホームに第一歩を踏み入れた時の胸中は、さぞかし開拓魂に似た希望と情熱でいっぱいだったろうと推察する。

 当時のシヅエさんを紹介するにふきわしい言葉を耳にした。「お姫様」「向町小町」あるいは「荒涼とした原野に降り立った一羽の美しい鶴」など。シヅエさんの美貌と知性を象徴した言葉であろう。しかし、女医としてのシヅエさんの姿は、このような言葉とは無縁で献身的に地域医療に身を投じる『粉骨砕身』の毎日であったという。シヅエさんの専門科目は、内科と小児科であったが、山村へき地での医療活動には“専門医”という言葉は必要とされず、耳鼻咽喉科や外科などもこなさなければならなかった。

 往診活動にも精力的に取り組み、広範囲に点在する集落にくまなく出かけて行った。自らの足以外に交通手段を持たなかった大正末から昭和の初期にかけては、一日三十キロもの距離を、毎日徒歩で往診に出かけたという。往診活動は冬期間も休むことなく続けられ、急患発生時の場合は、昼夜を問わず命がけで往診にあたったという。

 当時のシヅエさんの粉骨砕身ぶりを語るエピソードは数多いが、そのいくつかを三男である門脇篤さんにうかがってみた。 「母はいつもモンペ姿のまま寝てましたね。いつでも往診に出かけられるように、というのが母なりの考えのようでした。 それから、町内には私と“おっぱい兄弟”と呼ばれる人がたくさんおります。

つまり、母の母乳を共にした間柄ということです。私たちが生まれた当時は栄養状態が悪かったので、往診先などで母が自分の母乳を与えていたというのです。本当に頭が下がりますね。」

 シヅエさんの粉骨砕身ぶりは、女医としての枠にのみ止まってはいなかった。昭和九年に東北地方を襲った大凶作の時には、貧困者を救うために医療費を軽減しながら、献身的に医療活動にあたった。

 また、同十七年の向町大火では、自らの医院を焼失したにもかかわらず、物心両面にわたって災害復旧に大きく貢献したという。戦後は、母子保健の問題に積極的に取り組み、出産計画や育児などをテーマに、連日のように集落に出かけて講習会等を行った。
 シヅエさんの功績をあげれば、枚挙にいとまはないが、ここでそのいくつかを紹介してみたい。

●秋田営林局向町営林署の嘱託医としての功績。
 昭和十四年から四十九年までの三十五年間、片道十六キロもある「大森作業所」に定期的に出張し、約三百人の職員や家族の健康管理と治療にあたられた。
●国鉄嘱託医としての功績。
 昭和二十二年から、鳴子駅から新庄駅までの八駅に従事する職員や家族の健康管理と治療にあたったほか、鉄道事故による負傷者の救済に尽力された。
●民生児童委員としての功績。
 昭和二十三年から十九年間、民生児童委員として、生活困窮者のために医療の無料奉仕などで活躍。
●最上町国民健康保険運営協議会委員としての功績。
 昭和二十三年から二十年間、国民健康保険行政と医療行政の推進に尽力。また、同二十六年から二十八年にかけた村立診療所の医師空席期間の一時期に、自らの医院を閉鎖してまで勤務された。
●学校医としての功績。
 旧東小国村内の小学校をはじめ、富沢小学校、旧富沢中学校、赤倉小学校の校医として、予防接種業務など、児童生徒の健康管理に尽力された。

第3話 至誠の人 

  真夜中に急患が入っても、いやな顔一つしないで献身的に治療にあたるシヅエさん。また、患者に大声をあげたり怒鳴ったりしたシヅエさんの姿を見た人はだれ一人としていないという。これまでの紹介からも、「至誠」の二文字は十分過ぎるほど伝わっていると思うが、まだ紹介しなければならない面が残されている。

 それは「清貧」ということである。生前のシヅエさんの口癖は、「医者は常に患者さんの側に立たなければならない。医者が贅沢すれば、患者さんの負担が大きくなるから絶対に禁物。余分なお金はいらない。」であった。事実、門脇家の生活は清貧そのものであり、向町大火後においても“雨つゆをしのげればよい”という徹底した考えのもとに、古い納屋と土蔵を改造した住まいでの生活が長い間続いたという。

 最後に、至誠の人・門脇シヅエさんの生産を象徴するきわめつきのエピソードを紹介し、この特集を終えたい。晩年のころの話である。ある日、シヅエさんがごく親しい人にこうつぶやいた。「名誉町民になっているから、なかなか死ねないんだよ。だって死んだら大勢の人に迷惑をかけるだろう。名誉町民の称号をお返しするわけにいかないだろうかねぇ。そうしたら安心して死ねるんだけど…。」 ( ^ω^)おっおっおっ

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