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田中玄宰の改革

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           天明3(1783)年の会津は前年に続いての冷夏となった。
           浅間山大噴火による降灰もあり、大凶作に見舞われた。
           年貢米は激減した。会津藩は江戸にある藩邸や参勤交代
           などの経費を捻出するため借金を重ねた。藩財政は危機
            的な状態に陥った。




 ◆この窮地を救ったのは家老の田中玄宰[はるなか]だ。藩政の改革案を藩主松平容頌[かたのぶ]に示し、実行に移した。軍制の近代化を図り、人材登用などで体制を強化した。さらに飢饉[ききん]で荒れた農地を再整備し、酒や漆器の地場産業の振興に力を入れた。教育制度も見直す。藩校日新館を創設し、気高き藩士を育てた。

 ◆飢饉などで減少した人口は次第に回復する。産業も根付き、財政は健全化した。領内は活力を取り戻す。克服した難題は現在の会津地方が抱える課題に似ている。玄宰が今の世にいたら、どのような策に打って出るのだろうか。その手腕が見たい。

 ◆田中家の屋敷跡にある若松二中に先日、玄宰の数々の功績を記した顕彰板が完成した。NPO法人の呼び掛けに、多くの市民が浄財を寄せて実現した。「先人に習い、地域の未来を切り開く人材を育てたい」。機運は高まる。会津の地に再び救世主が現れるのを待つ。(あぶくま抄)

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Yubi


 

  このコラム・・・『正鵠を射(い)る』





 

『花ならば花咲かん 会津藩家老・田中玄宰』   トップカスタマーレビュー

名家老の真髄   投稿者  いかちゃん

 ▼会津藩といえば、幕末に京都守護職として活躍した藩である。その武力と質実剛健の会津武士道は、ある時期まで尊敬の的であった。しかし、そのような強く気高い東北の雄藩は、短期間で誕生したわけではない。

 ▼田中玄宰は、まさしくその会津藩の誕生に寄与した一人である。彼は、祖父が家老を務める家に生まれ、周りからの温かい指導を受けつつ育ち、文武両道の会津武士となった。今でいうところでは、毛並みの良い、サラブレッドといったところであろう。そういった人間は、実際の政治において、もしかすると純粋すぎて、理想ばかりを追い求めてしまう可能性がある。

 ▼しかし、玄宰の政治(財政改革と教育の充実等)は、机上の空論ではなく、民及び国(会津藩)の現状をよく見つめ、なおかつ将来を見据えたものであった。その手腕は江戸まで響き、老中首座となった松平定信が「会津の田中三郎兵衛に笑われること勿れ」と言ったほどだ。彼の改革の息吹は、後々まで会津に根づき、幕末の活躍の原動力となった。本書は、会津名家老田中玄宰の生涯とその改革について書かれた本である。

余はこれを可とするものなり  投稿者  hij 

 ▼会津藩家老田中三郎兵衛玄宰(ハルナカ)の生涯を描いた歴史小説です。あまり馴染みのない名前ですが、知る人ぞ知る名宰相です。会津藩は、初代藩主保科正之の施政よろしきを得て「民勢さし潮のごとく盛んなること」と云われましたが、やがて借金がかさむようになったところに、天明の大飢饉などの天災が続き、借金が藩の予算の20年分に相当する57万両に膨れあがった。

 ▼そのとき、家老に登用されて、藩制の大改革をおこない、殖産興業につとめて藩財政を立て直し、膨大な借財を完済したのが田中玄宰でした。その手並みはまことにあざやかです。本書は小説ですから、フィクションも多い。

 ▼愉快なのは、玄宰の供侍勝俣武蔵のキャラクターです。家老の家柄の嫡子と足軽の次男坊という身分の違いをこえた二人のやり取りがおもしろい。玄宰の身辺警護だけでなく、男女の道の指南もするという間柄。男女関係についていえば、玄宰は当時の上士にしては珍しく側室をおかなかった。相惚れの妻お由紀との関係は実にほほえましい。

読者の皆さまへ、 投稿者 珍念

気が向かれたらぜひ、『花ならば花咲かん 会津藩家老・田中玄宰』  中村彰彦(著) をお読み下さい。 

これ以上のコメントは『蛇足』 ・・・ヾ(´ε`*)ゝ

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