« 「ピンチはチャンス」 | トップページ | 真夏のミステリー »

恥知らずの貉

Ia 珍念のひとりごと

 ☆ 少年将軍・家綱に思いを馳せる

≪読者の皆さまへ、今日は、ラーメンの麺が伸びるほど
〈珍念〉の面白くも・何ともない・おしやべりに 暫
くお付き合いを、宜しくお願い申し上げます。≫

 徳川家綱は、父・家光の死によって、わずか11歳で
江戸幕府4代将軍となった人だ。小さいころから大事に
育てられたためとても柔和な少年だったが、ここでは
その心優しい人柄にふれることのできるエピソードを
3つばかりご紹介する。
 
 ▼あるとき、遠島になった罪人の話を聞いた家綱は、
「彼らは何を食べているのだろう」と近臣の者に尋ねた。
しかし、誰も答えられなかったため家綱は、「せっかく
命を助けて流罪にしたのに、なぜ食料を与えないのか」
と言った。それを傍らで聞いていた父家光は手を打って
喜び 「これを竹千代(家綱)の仕置きの始めにせよ」
と命じ、その後、流人に食事を与えるようになったという。
 
 ▼それから、家綱が将軍職を継いで間もないころのお話。
江戸城本丸の天守閣に上った際、側近の者が家綱に遠眼鏡を
すすめた。ところが家綱は「自分は少年ながら将軍である。
もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れ
たら、おそらく世人は嫌な思いをするにちがいない」
 と言って、遠眼鏡を手にしようとはしなかった。
 
 ▼最後に、家綱が食事をしていたときのこと。汁物を飲
もうとすると、お椀の中に何と髪の毛が入っていた。家綱は
髪の毛を箸でつまんで取り除き平然としていたが、小姓があ
わてて新しいものと交換しようとした。家綱はその小姓に対
し、「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように」
と言った。これはお椀を空にすることで、ふつうのおかわ
りと同じに扱えという意味で、咎められる者が出ないように
との優しい配慮からだった。
  
◆明暦の大火
 
 1657年1月18日に発生した明暦の大火(振袖火事)は
焼死者総数10万人を超える江戸開府以来の大惨事となった。
江戸市街地の6割が罹災、大名屋敷や寺社・仏閣もその多く
が焼失した。さらに20日から大雪となり、被災者の中には
凍死する者も多かった。
 
 ▼その状況下、直ちに災害対策に乗り出したのが保科正之
だった。府内6ヶ所で粥(かゆ)の炊き出しをさせるかたわら
、幕府の米蔵の米を被災者に無償提供し、家を失った者には
救助金計16万両を、旗本御家人たちにも作事料を与えると
断した。
 
 ▼そんなことをしては幕府の御金蔵(ごきんぞう)が無く
なってしまう、と老中たちが反対したが、正之はこう言った。 
「すべて官庫の貯蓄というものは斯様(かよう)の時に下々へ
施与し、士民を安堵せしむるためにして、今回のような支出は
国家の大慶とするところなり。むざと積み置きしのみにては
一向蓄えなきと同然なり」
 
 ▼さらに正之は、在国の大名たちの出府を禁じ、また、在府
の大名たちを国に返して江戸の物価上昇を抑えるなど、見事な
危機管理能力を発揮した。
 江戸城も焼失し、後に再建されたが、天守閣だけは再建され
なかった。老中たちは、天守閣がなくては幕府の対面が保てな
いとして強く再建を唱えたが、今度は正之が大反対した。
 
 ▼「天守は近代、織田右府(信長)以来の事にて、ただ遠く
を観望いたすまでの事なり。方今、武家町家大小の輩、家作を
為すの場合、公儀の作事長引くときは下々の障りにもあるべし。
かつ斯様の儀に国財を費やすべき時節に非ざるべし、当分御延
引しかるべし」
 
 ▼現在も皇居となった江戸城跡には天守閣はなく、天守台
だけが残っている。正之が述べた「御延引」は、今もなお続
いている。『ウィキペディア(Wikipedia)』

☆ 『珍念』感動しました 。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

それにしても・・ 徳川家綱と比較するのも汚らわしい。
理念なき、永田町の権力亡者の恥知らずの貉たちよ!
馬鹿も、ほど、ほどにせい。あ・・馬鹿につける薬はなかった。

Photo 20p7__2 \(*`∧´)/ ┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~

 
 
 

« 「ピンチはチャンス」 | トップページ | 真夏のミステリー »