有為の雲 ん・・・? (@_@。
読者の皆さま、お早うございます 今回もちょいと長いお話です!
石川啄木の 「雲は天才である」 という小説が、私は好きであった。
天才にして孤独の詩人、彼は、自らの自負心が高まって、我すぐ
れたりとして、人を相手にするよりも、むしろ雲と語り会ったに
ちがいない。しかし私は、人と人とのつながりの”友情の華”に
こそ、青春の舞台がある、と申し上げたい。
その友情の真髄の証ともいうべき、太宰治の「走れメロス」は
まことに感銘が深く、これからの人生を歩みゆく少年たちに、読ませて
あげたいものである。
ところで、「友とするにわろき者、七つあり」・・と
吉田兼好は「徒然草」の中で述べている。
友人として持ちたくない人間のタイプに七つある、というのである。
「一つには、高くゃん事なき人。二つには、若き人。三つには、病なく
身強き人。四つには、酒を飲む人。五つには、たけく勇める兵。
六つには、虚言する人。七つには、よく深き人」ーというわけである。
「高くやん事なき」つまり高貴な身分の人や「若き人」をあげるのは、
二九歳の若さで世を捨て、四十路も半ばを越えた人の、澄んだ
観察眼のなせる業であろうか。
「酒を好む人」・・・もしかすると兼好の周りに大変酒癖の悪い人間
がいたのかも知れない。などと私の想像は駆ける。 しかし
もっとも首肯させられるのは「病なく身強き人」の件である。もとより
兼好は、病を推奨しているのではあるまい。病に限らず人生の登
攀路にあって、多くの苦難というものがもたらす、人間の内面的な
深まりを示唆しているのだと思う。たしかに、一度も病床に臥した
ことのない人は、どうしても弱者への思いやりに欠けがちだし
なによりも「病苦」はいかなる人間にも、人生でもっとも大切なものは
なにか、という点に目を向けさせてゆく、有無をいわせぬ力を持って
いるものだ。 若いころから、決して身体が丈夫でなかった私には
それが痛いほどよくわかる。
「病によりて道心はをこり候なり」
この日蓮大聖人の御遺文の一節を胸に、走りに走った幾星霜が
いまは懐かしい思い出となっている。とともに、それは私の青春譜
に刻みえた、かけがえのない心の財産であるといってよい。
一人の平凡な人間が、病気に襲われたことを契機に、徐々に
人生の真実に目覚めゆくさまを描いた傑作に、トルストイの
「イワン・イリッチの死」という小品がある。
生死の問題を描いて、文豪の筆は類まれな冴えを示しており、長
編にも劣らない、人の心に訴えてるなにかがある。
イワン・イリッチ。月並みな一公務員である。官吏の家に生れ
最終的には中央裁判所の判事まで登りつめるエリートだが、その
半生は「ごく単純で平凡」だった。妻と二人の子どもをかかえ
「勤務上の喜びは自尊心の喜びであり、社交場の喜びは虚栄心
の喜びであった」。またカード遊びをこよなく愛している。
仕事もそつなくこなす、いわば可もなく不可もなし、の典型的な
官吏タイプであった。そんな彼が、あるとき不治の病に取りつかれる。
家の飾り付けをしていた際、台から転落して窓の取っ手に横腹を打ち
つけたのだ。初めはたいしたこともなかったが、そのうち口中に妙な
味を覚えたり、絶えず脇腹に重苦しさが感じられるようになる。
何人もの医者にかかるが、病名はいっこうに要領を得ない。
苦痛はいやますばかりである。 彼は、仕事に没頭することで、それを
忘れようとする。だが横腹の痛みは、裁判の進行などおかまいなしに
襲ってくる「あいつがやって来てまともに彼の前に立ちふさがりながら
ひたと彼をみつめる」彼は茫然として自分自身に問いかけるので
あった。「いったい、ただ”あいつ”ばかりが本当なのかしらん?」と
イワン・イリッチのその後は、”あいつ”との壮絶きわまる格闘である。
「問題は盲腸でもなければ、腎臓でもない、生きるか・・死ぬかという
問題なのだ」。生死という根本事に比べれば、かって彼の人生を彩って
いた仕事、社交、カード遊びなどは、夢幻に化してしまう。
「今の彼イワン・イリッチを造りあげた時代が始まるやいなや、その当
時喜びと思われたものが、今の彼の目から見ると、すべて空しく消えて
しまい、なにかやくざなものと化し終わり、その多くは穢らわしいものに
さえ思われた」
そして死の二時間前、一つの啓示がおとずれる。
「本当の事」。死の恐怖がさり、死の代わりに光があった。
「いよいよお終いだ」誰かが頭の上で言った。彼はこの言葉を聞いて
それを心の中で繰り返した。「もう死はおしまいだ」と
彼は自分で自分に言い聞かした。 もう死はなくなったのだ」。臨終
誠に迫真の筆致と言ってよい。
日蓮大聖人は御遺文集の中で「秋の暮に月を詠めし時 戯れむつ
ぴし人も 月と共に有為の雲に入りて後 面影ばかり身にそいて物いふ
ことなし 月は西山に入るといえども 亦こん秋も詠むべし然れども
かくれし人は 今いずくにか住みぬらんおぼつかなし」と、
人生の無常なる一面を述べられつつ、日々確たる人生を築きゆくことの
大切さを教えられている。
「有為」とは「無為」に対する言葉で、流転し消滅しゆく事物を指す。
たしかにそれも大切であろう。しかし「有為」がすべてと思っていると
それらが厚い雲の陰に隠れてしまったとき、残るのはいいようのない
空しさだけではあるまいか。
ちょうど、イワン・イリッチがそうであつたように・・・。
限られた人生である。なにが「本当の事」であるかを見失うことの
ない求道と前進の日々、そして生涯でありたいものである。
つれずれ随想 (池田大作著)より 引用
ちんねん どう考えても・・百年後にはこの世に居ませんです!
読者のみな様も・・・いかがでしょうか・・?
ちんねん 稀有の師匠のお陰で色々学ばせて頂いています。
イワン・イリッチのように死の恐怖に怯えたりはしていませんです。
自分自身の中に希望の灯を灯しているか・・? 否や
精神の死が恐ろしいです・・・生きる屍です・・
あ・・・いけない 偉そうな説教じみた事を・・ (^_^;)
あまり幼稚な事を述べると誤解を招く恐れが有りますので
減らず口を閉じます (-_-)/~~~ピシー!ピシー!
最近のコメント